主催 浜松市南区可見公園総合運動場、主催南区役所 区振興課

演題 災害から命を守る

(以下はメモをまとめたもので、不足はあるものの要旨は把握できていると思います。心を打つ話でした。)

雁部那由多氏 石巻高校2年 著書 16歳の語り部 被災当時は小学5年

「被災体験、語り部をする理由、震災が残したモノ」の3つに分けて話があった。

1 被災体験 (大曲小学校)

3月11日、午後2時46分、大きな地鳴りから始まり、激しい縦揺れ、激しい横揺れが約10分間続いた。まるで箱に入れた物が上下に激しく揺さぶられるようであったという。余震が続く中、上履きのまま一旦帰宅し、避難のために学校に戻った。防災無線が故障しており、津波警報は聞いていない。多くの避難者が校庭に集ってきて、誘導により、まずお年寄り子供から順に3階の図書室に避難した。上履きでの避難で汚れているので、運動靴をとりに校舎1階の昇降口に降りて行った。昇降口の外側で、津波の襲来と人が流される場面に遭遇した。グランドを最初はくるぶしが浸かる程度の波がサッーと押し寄せ、この時は危険は感じなかったという。昇降口の外に出て、大人数人が校舎に避難して来るのを見た。大人が昇降口の近くまで来た時、高さ60cm程度の流れの強い津波(濁流)が一気に押し寄せてきて、あっという間に大人たちは流された。大人たちは助けを求めるように手を伸ばしてきたがどうすることもできなかった。あっという間の出来事であった。昇降口に出ていた自分が流されなかったのは、昇降口が数段高くなっていることと、水道の設備があり、ちょうど障害物のような役目をして津波の勢いを弱めたからという。もしも水道の設備がなければ流されていたかもしれない。大曲小学校の北側には川が流れており、津波の一波は海から来たもので、次の強い津波は、川を遡上してきた津波が堤防を越えてきたものであるという。川の堤防を越えてくる津波は波高が高くなり、エネルギーを蓄えて、堤防を崩し越える時は一気に強い濁流となり押し寄せてくる。流れが速く大人たちはあっという間に流されてしまった。こ人たちは助からなかったという。東松山市の65%が浸水し、死者は1110名であった。

健康な成人が歩行できなくなる津波の高さは50cmである。話を聞いていて、50cmの怖さ、一気に濁流として襲い、転倒しそのまま流され、助からないことが実感として伝わってきた。

2 語り部をする理由

4月21日に大曲小学校の授業が再開された。どうしてこんなに早く再開するのか、まだ避難生活を始めて一か月しかたっていない。校区が広く内陸地の児童は津波被災していなく、学校再開は友達に会えると受け取っていた。被災地区の子供たちは、家族を失い、家を流され、避難生活が始まってまだ日が浅く、授業が受けられるような状態ではなかった。学校で、「津波、地震、マグニチュードなど」地震に関する言葉を聞くと、児童は泣き出し、騒ぎ出し、収拾がつかなくなった。クラスが二つに分裂し、二人の先生が担任をすることもあったという。そのため先生方は学校では「地震の話はしないこと」を取り決めにして、皆それを守って生活していた。地震の話はしないということが児童たちには当たり前になったのである。中学に進学し、2014年3月11日、「みやぎ鎮魂の日」のシンポジウムに参加して、他の生徒たちが皆被災体験の話をしているのを聞き、驚き、初めて津波、被災について話してもいいんだという気持ちになったという。この日を境にして「被災体験は持っているだけならいやな思い出、伝えることで人の命を救う価値を持つ」という考えに至った。これが語りを始めた理由である。

3 震災が残したモノ

(1)未災地 だに害が来ていない域、来に害が来る域、真に浜松市のことである。時間がたつと被災の恐ろしさ、大きさが伝えられなくなり、世代交代するうちに被災地が未災地に戻る。

(2)災間を生きる。災害から次の災害の間に対策を有効に生かし伝える。災害は一定のサイクルで繰り返される。東北は30年サイクルで地震発生。

(3)意識 逃げなかった人が死んでいる。

被災者にとって、3.11が震災の日ではなく、「3.11から今日まで」が震災である。ハード面の対策、防潮堤などは時間稼ぎであり、避難する意識がなければ被災を免れない。意識がソフト面の防災である。今日いままで隣にいた友がいなくなる。非日常が突然襲ってくる、それが被災である。1日1日を大切に生きる。

・避難所での大人の行動 援助物質を奪い合う大人、偽班長が出没し、用意されていた食べ物が奪われる。これは学校の避難者は班別になり、配給品が班別に分けられスムーズに配給する仕組みであるが、学校外から入り偽班長を名乗り配給品を奪ってしまうのである。それだけ困窮していたともいえる。マスコミで報道される整然と行列を作りルールを守る被災者ばかりではない。